茂辺地地区創生会議
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イベント・観光名所
・茂辺地川とさけまつり
・茂辺地合同大運動会
・雪遊童
・今昔、茂別物語(2016)
・北斗星
・茂辺地自然体験の森
・茂辺地のレンガ
・葛登支岬灯台
・矢不来天満宮
・さけ見橋
・湯の沢水辺公園キャンプ場
北斗市茂辺地さけまつり
秋になると北斗市の河川には、たくさんの鮭が遡上(そじょう)してきます。中でも、茂辺地川は、我が国における先駆けとして、明治12年(1879)北海道で初めて民間人による鮭孵化(ふか)事業が行われたところで、現在も9月~11月にかけて沢山の遡上する鮭を見ることができます。
この茂辺地川には、「鮭にまつわる伝説」が残されています。
毎年11月3日。さけの遡上を見ることができる茂辺地川で、鮭をはじめとした海産物や農産物の販売、さけのつかみどりや、さけ鍋無料サービスが行われています。
茂辺地合同大運動会
茂辺地小中学校、茂辺地町内会と合同で行います。
地域の人々が集い楽しい運動会になります。
一般参加もOKです。
雪遊童
毎年、2月上旬、茂辺地冬のフェスティバル「雪遊童」が開催されます。
この冬の行事は、子どもの外遊びを推進する目的で行われています。
内容は雪上競技が中心です。例年、競技終了後、参加者は参加賞を頂いたり、豚汁をご馳走になります。
今昔、茂別物語(2016)
「茂別村」は「石別村」と「茂辺地村」が合併してできた村。
今年(平成28年)はその合併から110年目となる節目の年になる。その歴史を絶やさぬようにと立ち上がった企画「今昔、茂別物語」。その企画の中には、60年前の風景と現在の風景を観ることができる写真展や私たちの昭和ノスタルジアコンサートも開催する。
要となったのは「茂別小唄」と「茂別音頭」という曲の復刻再現だ。
昭和28年度に制作した「茂別村要覧」に残っていた楽譜。
今ではその歌を歌う人もいなければ知る人もいない。
しかし、それをもう一度復刻させ歌い継いでいきたいと歌旅座の元に楽譜が届いた。
二つの歌は新たな命を吹き込まれ復刻した。
北斗星
寝台列車・北斗星とは
昭和63年の青函トンネル開通に伴ってデビューした東京の上野駅と北海道の札幌駅を直通で結ぶ寝台列車です。その利便性と美しい外観によって多くのファンを獲得してきました。
一昨年、車両の老朽化と北海道新幹線の開業に伴って走行路線の電圧が変更されたことで、惜しまれながら引退しました。
北斗星と北斗市
「北斗」という名前でつながるのはもちろん、北斗星の現役運行時には、実際に北斗市内を走行していたことから、市内にも多くのファンの方がいることに違いありません。 市としても、これからの取り組みを応援していきたいと思っています
茂辺地自然体験の森
この「茂辺地自然体験の森」は、古くから紅葉狩りや森林浴、森林体験活動の場として、子供たちや一般市民の方々に広く利用されてきました。
国有林では、自然環境に恵まれたこの地区を、子供からお年寄りまで多くの方々に四季を通じて森林に親しんでもらえるように整備しています。
森林の中には、バリアフリーの散策路やトイレ、駐車場を設置しており、ハイキングや自然観察などを楽しんでいただけます。
むき出しの岩の荒々しさは、「北斗のグランドキャニオン」とも呼ばれる
雪解けを待ちかねて咲く草花、四季折々の森の様子、小鳥や昆虫の観察など、森の中を散策しながら自然を満喫できます。
蛙の沼
遊歩道沿いに春先にだけ現れる、神秘的なエメラルドグリーンの沼
【アクセス】
函館市の西方約35km、北斗市(旧上磯町)市ノ渡にあり茂辺地市街地から道道上磯厚沢部線を約10km入り車で約20分。湯ノ沢水辺公園を過ぎて約5分です。
茂辺地のレンガ
茂辺地地区は粘土が豊富に採れるところとして古くから知られていました。日本におけるレンガの草創期である、弘化4年(1847)、能登国の瓦師・金子利吉が、茂辺地村で粘土を発見し、瓦を造りました。
陶工・岩治が官金500両余を借り、文久元年(1861)から2年間に3万枚のレンガを茂辺地で製造し、茂辺地は幕末から窯業の主要地として位置づけられていました。
明治5年(1872)、上磯町茂辺地(現北斗市茂辺地)に、北海道で初めて北海道開拓使(明治政府)による茂辺地煉化石製造所が設立されました。明治5年から9年(前期)にかけて製造されたものは、技術の未熟さなどから品質が悪かったことや輸送コストなどの理由から、製造所は一旦閉鎖されてしまいます。
明治11年に生産が再開され(後期)、東京から煉化石職人2名が派遣され、技術上の向上が図られ、良品・良質と絶賛されるまでになり、東京の開拓使物産売捌所の建造にも使われた。原料や燃料の確保などに問題が生じたことや、政府の方針である官営工場の民間払下げの方針により、明治14年に製造所を森兵五郎に貸与し、再び閉鎖された。
このレンガを使っている現存の建造物としては、函館市内の「旧開拓使函館支庁書庫」(右上写真)「市立博物館郷土資料館」がある。函館は大火の多さで知られており、建物の不燃化対策としてレンガは非常に重宝されておる、茂辺地煉化石製造所は期待をもって建てられたと言われています。
また、新しい建物では函館アリーナ等にも展示されている。新函館北斗駅舎内の壁面は、茂辺地のレンガをイメージしているものです。
葛登支岬灯台
葛登岬灯台
明治18年に完成した
根室市の「納沙布岬灯台」
小樽市の「日和山灯台」
稚内市の「宗谷岬灯台」に次いで
四番目に古く、道南では最初の灯台です。大型第三等レンズという
フランス・バビエ・フェネスタ社製のものが使用されている
この灯台にはアイヌに関係した伝説が残されています。
以下、北斗市観光協会ブログより
葛登支に住んでいた美しい娘と
七重浜(北斗市の東側の地域)に住んでいたアイヌの若者の恋物語です。
人目を忍んで逢っていたのですが、愛し合う二人は毎日会いたくなりました。
そして毎日会うために、
日が暮れるのを待ってアイヌの若者が船で葛登支に通いました。
この若者が迷わぬよう、娘はたき火をして道しるべにしていました。
しかし、この美しい娘を好きな若者が他にもいました。
嫉妬に狂ったその若者は、アイヌの若者を待っていた美しい娘を襲います。
娘が焚いていた火が消え、アイヌの若者の船は道しるべを失い、
荒れ狂う波になすすべなく命を落とします。
しかし亡くなったことを知らない娘は次の日からも火を焚いて若者を待ち続けます。
5年も、10年も火を焚き待ち続けました。
それがいつの間にか沖を通る他の船の目印となっていたそうです。
娘はひたすら若者を待ち火を焚き続け一生を終えました。
やがて明治になり、津軽海峡を航行する船の安全のために灯台ができたそうです。
矢不来天満宮
この神社は、14世紀に矢不来海岸に流れ着いたという天神様(菅原道真)像を祭ったのが始まり。道内でも古い起源を持つ神社の一つで、「矢不来の赤松」「ご神体」「社殿の不思議」「鳥居の言い伝え」等ミステリアスなものも含めていろいろな言い伝えの多い神社です。
国指定の史跡の「茂別館跡」で、鎌倉~室町時代にかけて築かれた「道南十二館」のひとつである。ここは豪族下国(安東)氏の居館であった。「茂別館跡」の大館跡に現在のこの神社が建っている。土塁も残っている。
矢不来の地名の語源は、1457年、コシャマインの戦いの際、この地にアイヌの毒矢が来なかったことから「ヤギナイ」と呼称し矢不来の字をあてたとの説がある。
しかし、地形から言うとアイヌ語の「ヤンギナイ」=船を揚げる所というものに由来するという説が有力。
「矢不来の赤松」
矢不来天満宮の天神様(菅原道真像)は、赤松の上に乗ってこの地に流れ着き、流れ着いた浜辺には赤松の大木が生えた。
昭和5年(1930)、上磯~木古内間に鉄道架設工事が始まり、この大木を伐ろうとしたが、旭川から連れて来た腕のいい木こりでも伐ることが出来なかった。
ある夜、その木こりの夢に老人が現れて、「切り口に葦を挟んで伐るとよい」と教えたので、その通りにするとようやく伐ることが出来た。 しかし、その後伐った木こりもお祓いをした神官も死んでしまったという。
鉄道開通後も走行中の汽車の中に、白衣の老人の霊が現れると騒がれたため、伐った木の一部を矢不来天満宮に祀って木の霊を鎮めたという。
「鳥居の言い伝え」
鳥居の上を見ると、大小の石が乗っているが、これは深夜人に見られないように後ろ向きに石を投げ、鳥居の上に乗れば願いがかなうという言い伝えがあるからである。