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​歴史的遺産と文化財
​ 石別地区には縄文時代の遺跡が16カ所確認されています。そのなかでも一番古い遺跡は、縄文前期(約6000年)の「三ツ石遺跡」です。
トラピスト修道院
 明治29年、9名の修道士と、近隣住民とアイヌ人で開墾を始め、トラピスト修道院(厳律シトー会灯台の聖母大修道院)を設立する。
明治30年、初代院長にジェラール・プーイエが就任する。
川田龍吉男爵
​ 明治39年 函館ドック専務取締役として北海道へ
函館ドックの経営が軌道に乗ったところで勇退した龍吉は、残された生涯を北海道農業近代化のためにささげることを決意し、当別におよそ1,200町歩の山林農地の払い下げを受けて農場を建設。主として、米国より最新式の農機具を多数輸入し、機械化による農業を試みました。
明治14年(1881)  三ツ石村と当別村が合併し石別村が誕生
明治39年(1906)  石別村と茂辺地村が合併し茂別村が誕生
昭和30年(1955)  茂別村と上磯町が合併し上磯町が誕生
​石別地区のおもなできごとはこちら
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​石別今昔物語

​トラピスト修道院
​葛登支灯台

​文人の往来

島崎藤村 明治5年(1872)~昭和18年(1943)
 教え子であった、函館の漁網問屋秦慶治の三女、秦冬子と結婚する。
「破戒」を世に問うにあたり、これを自費出版するための費用を妻の実家にもとめて、当時日露戦争の風雲急な津軽海峡を渡って函館に赴く。明治37年(1904)の7月27日から8月3日まで函館に滞在する。この滞在中に渡島当別の寿楽園にも宿泊し、冬子夫人との結婚披露を兼ねた祝宴が開かれたとされている。
 こうした藤村と函館との結びつきが、「家」「津軽海峡」「突貫」「トラピスト」「分配」などを生み、また「夜明け前」などに函館のことが散見される。
 藤村の妻、冬子の短いつらい生涯は、古い明治の時代に一つの家を守り、子を生み育て、そして夫や子の犠牲となって若い命を散らした女の運命として、これも一つの「夜明け前」の姿と思われるのではなかろうか
「北海道新聞」昭和55年(1980)12月4日
三木露風 明治22年(1889)~昭和39年(1964)
 大正4年(1915)当別のトラピスト修道院を訪れて3週間滞在。その印象は詩集「良心」に含まれている。大正9年(1920)トラピスト修道院から講師に招かれ、夫人ともに修道院に入った。「修道院詩集第一巻・信仰の曙」を刊行。大正10年(1921)夫婦ともども洗礼を受け、信仰の果てローマ「羅馬」にちなんで「羅風」と号したこともある。「のばら」や「あかとんぼ」はこの世界から生れたが、大正13年(1924)に修道院を去った。その後、随筆集「修道院雑草​」論集「修道院生活」「神への道」「トラピスト歌集」「修道院詩集第二巻・神と人」「我が歩める道」があり、これらの諸作によって修道院生活の全貌を捉えることができる。
​当別全景
​当別駅
​石別中学校
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