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トラピスト修道院

 静寂なたたずまいをみせ、訪れる人々の心を和らげるトラピスト修道院

正式名称は「厳律シト―会灯台の聖母大修道院」といい、1896 年(明治29 年)、フランス、オランダ、イタリア、カナダから総勢9 人の修道士たちがこの地を訪れ、日本最初の男子トラピスト修道院を創設し、「灯台の聖母修道院」と命名されました。翌年、フランスのブリックベック大修道院からジェラール・プーリエ師が来て創立修道院長として着任しました。師はパイオニアに相応しい強靭な精神力の持ち主で、のちに帰化し、岡田普理衛と名乗りました。
 

 


 修道院が創立された目的は、すべての人々にキリスト教の福音を伝え、神の恩恵を祈り求めることにあり、祈れ、働けをモットーに、聖ベネジクト(547 年没)の戒律の下に神への奉仕に専念するのです。「万事を越えて神を愛し、人を己の如く愛すべし」キリスト教に生きる修道者たちは、その言葉の通りの生活をしています。創設当時は石倉野と呼ばれていたほど岩石の多い荒地で、これを開拓し、農耕、牧畜、酪農に力を入れ、1902 年(明治35 年)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに修道院を中心に南北海道一帯に広がって行きました。

 戦後、日本人の食生活が向上するにつれ、トラピストで作られるバターやクッキーが人々に親しまれ、北海道を代表する名産として全国に広がりました。現在の赤レンガの建物は最初の修道院が焼失したため、1908 年(明治41 年)に建てられたものです。

 トラピスト修道院に植えられている桜は、通常よりも遅く咲く桜の種類です。市内の桜の名所が全て、終わったときに咲き始めます。南殿(なでん)や、普賢象(ふげんそう)や、雨宿(あまやどり)等の桜が咲きます。

​ルルドの洞窟

 カトリックの巡礼地として世界的に有名なフランスの「ルルドの洞窟」。トラピスト修道院裏の丸山にも、「ルルドの洞窟」がつくられています。1910 年(明治43 年)春、雪の深い裏山でジェラル・プーリエ師が遭難しましたが、幸い一命をとりとめ、入院中にこの裏山にルルドの洞窟建設を計画し、翌年落成されました。1989 年(平成元年)には、裏山のルルド洞窟が風化落石のため危険となり、修復不可能とわかったので、200m程手前の山を削り、現在に至っています。
 修道院正面から徒歩30 分の位置にあり、展望台にもなっています。

葛登支岬灯台​

葛登支岬灯台

明治18年に完成した

根室市の「納沙布岬灯台」
小樽市の「日和山灯台」
稚内市の「宗谷岬灯台」に次いで
四番目に古く、道南では最初の灯台です。大型第三等レンズという
フランス・バビエ・フェネスタ社製のものが使用されている

 この灯台にはアイヌに関係した伝説が残されています。​

以下、北斗市観光協会ブログより

 葛登支に住んでいた美しい娘と七重浜(北斗市の東側の地域)に住んでいたアイヌの若者の恋物語です。人目を忍んで逢っていたのですが、愛し合う二人は毎日会いたくなりました。そして毎日会うために、日が暮れるのを待ってアイヌの若者が船で葛登支に通いました。この若者が迷わぬよう、娘はたき火をして道しるべにしていました。しかし、この美しい娘を好きな若者が他にもいました。嫉妬に狂ったその若者は、アイヌの若者を待っていた美しい娘を襲います。娘が焚いていた火が消え、アイヌの若者の船は道しるべを失い、荒れ狂う波になすすべなく命を落とします。

しかし亡くなったことを知らない娘は次の日からも火を焚いて若者を待ち続けます。5年も、10年も火を焚き待ち続けました。それがいつの間にか沖を通る他の船の目印となっていたそうです。

 娘はひたすら若者を待ち火を焚き続け一生を終えました。やがて明治になり、津軽海峡を航行する船の安全のために灯台ができたそうです。

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